「ほっ」と。キャンペーン

Sudden Fiction     


by hayu

兎の生活


 仕事から帰ると、彼女は一刻も早く毛皮を脱ぐことにしている。気分を変えたいし、それにあせもが出来てしまうからだ。たまらなく暑いし、それにかゆい。今日も首筋にできてしまった。あーあ、と、シッカロールをはたくと、少し気分がほっとする。
「夏はいやあね」と彼女は思う。毛皮は暑いし、しっぽだって短いし。
 背中のジッパーを下ろすと、毛皮がはらりと床に落ちる。シャワーを浴びて、それから、もういちど首にパウダーをはたく。それで、部屋に戻ると、丹念に毛皮の手入れをはじめる。いい香りのオイルを手にとって、耳の部分の毛を念入りに何度もなめす。次第にツヤが出て、惚れ惚れするようなイイ耳になる。形の良い耳は彼女の自慢なのだ。
 目が充血するのは嫌だから、テレビは早めに消すことにしている。それで、寝る前にもう一度、毛皮を着るのよ、と言うと、
「どうしてそんな面倒くさいことするの?」とか、
「そのまま寝ちゃったらいいじゃないの、」とか、
「そいで、朝になってから毛皮を着りゃいいのよ、」とか、誰もがそう言う。
 でも彼女は嫌なのだ。人間みたいな悪夢を見るのは。
 それで、もう一度兎になって、夢のなかの青白い月の野原を、ずんずん、遠くまで走り回ることにしている。
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# by indian-K | 2013-09-05 19:52

乗車券

「あっ」と彼女は言って、押し入れの奥から小さな箱をとりだした。
 それは古びたお菓子の箱だった。
 僕と彼女は引っ越しのためにアパートの掃除の最中だった。もう10年は暮らしただろうか。あたりまえだけど、僕も彼女もその頃は今よりずっと若かった。
「なんだと思う?」
「プレゼント」と僕は言った。プレゼントの入っている箱にしてはそれは古くて全体的に汚れていた。
 箱のふたを彼女は開けた。なかには紙切れが三枚入っていて、その紙切れには「じょうしゃけん」と色えんぴつで書いてあった。
「子供のころ、夢をみたのよ」と彼女は言った。
「どんな夢?」
「羊列車に乗る夢。これはその乗車券」
 彼女はそう言って箱から紙切れを取りだすと、僕に見せた。三枚ともたしかに「じょうしゃけん」だった。
「お母さんと乗ったの。お父さんに会いにいく夢だったのよ」
 彼女のお父さんは、彼女が子供のころ亡くなったのだ。
「そう」と僕は言った。
「羊列車に乗ったことは?」と彼女は冗談か本気かわからない言い方をした。
「ないね、まだない」
「夜の海岸線を走ってるの。列車のなかには羊がいっぱいいてね、ずっと昔から走ってるのよ、きっと。三葉虫のころから」
 彼女はそう言ってやっぱり冗談か本気かわからない笑い方をした。
「これあげるわ」と彼女は言った。僕は「じょうしゃけん」を一枚もらった。
「ありがとう」と僕は言った。

 本当は僕も乗ったことがある。
 まだ二人が出会ったばかりのころ、僕も何度か乗ったのだ。満月の夜の海岸を羊列車はカーブを描きながら走っていった。僕も乗車券を一枚持っているって事も、誰に会いにいったのかって事も、もちろん彼女には内緒だけど。
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# by indian-K | 2013-08-28 12:15